G7広島サミットを終え、その成果の検証が行われる中、
注目が集まっているのが、
カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(91)
の発言です。
サーローさんは、核兵器の非人道性を訴え続けていて、
今回の広島サミットの後も記者会見を行い、
議論の成果をまとめた「首脳声明」について
「核抑止が前提になっている、広島で開いた意味がない」
各国の首脳は、被爆者の気持ちを汲んでいるのか?
と苦言を呈しました。
そこで、そもそもサーロー節子さんとは一体何者なのか?
プロフィールや経歴、夫や家族構成、国籍について
まとめました。
サーロー節子とは何者?wikiプロフ!経歴や学歴
氏名:サーロー節子
旧姓:中村節子(なかむら・せつこ)
生年月日:1932年1月3日(2023年で91歳)
出身地:広島県広島市南区
出身校:広島女学院大学・リンチバーグ大学・トロント大学
居住地:カナダ・トロント
サーロー節子さんは、
広島出身カナダ在住の反核運動家です。
旧姓は中村で、1932年に広島市に生まれました。
ちなみに岸田総理大臣の遠い親戚にあたるといいます。
父はアメリカ・カリフォルニアで起業し、
果実業を営んでいたといいます。
節子さんは、広島女学院に進学しますが、
学徒動員により軍に呼ばれ暗号解読助手の仕事をしていました。
そんな中、1945年8月6日、
広島市への原子爆弾投下により、
爆心地から1.8㎞離れた軍の司令部で被爆、
建物の下敷きになりましたが、生き残りました。
終戦後、広島女学院大学を卒業。
1954年にアメリカに留学しリンチバーグ大学で学びました。
その後、1955年には、カナダ人の英語教師と結婚。
夫婦でトロントに移住しました。
カナダでもトロント大学で社会福祉事業の
修士号を取得するなどしていて、
勉学への関心が高いことが伺えます。
それからは世界各国で、
広島・長崎の被爆写真パネルの展示などを始めたほか、
自身の被爆体験を語り核兵器廃絶を訴えてきました。
2017年には核兵器禁止条約の制定に向けた
国連本部の会議に参加し、条約の成立に貢献。
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が
ノーベル平和賞を受賞した際には
被爆者として初めて授賞式で演説しました。
サーロー節子の夫や子供・家族構成は?
サーロー節子さんの家族は、
夫と息子2人です。
夫の名前はジム・サーローさん。
人生のパートナーであり、反核運動の同志だったといいます。
サーロー節子さんが講演で使用する原稿全てに目を通し、
常に適切な助言をくれていたということですが、
2011年4月に息を引き取りました。
節子さんは「大きな支えを失った」とコメントしています。
長男ピーターは、経済学者として中東で暮らし、
孫2人は成人しているといいます。
現在、サーロー節子さんの活動を側で支えるのは、
次男のアンドリュー(アンディ)さんです。
アンドリューさんは、
サーロー節子さんが一人で歩けるときから、
ともに広島を訪れていました。
今回のG7広島サミットでも、アンドリューさんは来日。
サーロー節子さんの車いすを押して歩きました。
サーロー節子さんが、自身の息子にも
活動の大切さを伝えてきたからこそ、
アンドリューさんも毎回、広島に足を運ぶのでしょうね。
サーロー節子の国籍は?在日韓国人といわと言われるのはなぜ?
サーロー節子さんは、
「在日韓国人」
というワードとともに検索されることも多いようですが、
サーロー節子さんのもともとの国籍は日本だとみられます。
地元紙の行ったインタビューでは、
サーロー節子さん(中村節子さん)は、
中村家はかつて広島藩士だったと話しています。
つまり、江戸時代から日本で続ている家系ということになります。
そんなサーロー節子さんに在日韓国人説が出てきたのは、
サーロー節子さんの母親が、
朝鮮半島の学校で働いていたことなども
影響しているのかもしれません。
サーロー節子さんは、
70年ほど前に結婚しトロントに移住しているので、
現在は、カナダ国籍になっているとみられます。
サーロー節子のwikiプロフ!経歴・家族構成や国籍まとめ
サーロー節子さんは、
広島出身の被爆者で現在はトロント在住。
世界中で被爆者として証言を重ね、反核運動をつづけています。
活動を支えていたカナダ人の夫は亡くなりましたが、
現在は次男アンディさんが、サーロー節子さんの活動を支えています。
国籍は韓国?という説が出ていましたが、
中村家は江戸時代から日本で続く家系で
元々は日本国籍でしたが、現在はカナダ国籍のようです。
当時を知る方も高齢化により少なくなっているため、
長生きして次の世代に平和の尊さを伝えてほしいですね。
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