やなせたかしさんといえば
「アンパンマン」の生みの親として有名ですね。
2025年度前期の連続テレビ小説に決まった
『あんぱん』は、やなせたかしさんを
モデルにしたストーリーであり、注目が集まっています。
今回は、アンパンマン以外にもいくつもの代表作を残し、
多くの人に愛されてきたやなせさんの生い立ちを
ご紹介していきます。
やなせたかしのプロフィールや代表作
プロフィール
ペンネーム:やなせ たかし
本名:柳瀬 嵩(読みは同じ)
生誕:1919年2月6日
死去:2013年10月13日(享年94歳)
家族構成:柳瀬清(父)・登喜子(母)・千尋(弟)
配偶者:小松暢
代表作①『アンパンマン』
やなせたかしさんといえば
誰もが思い浮かべるアンパンマン。
1969年、やなせさんが50歳のときに
雑誌「PHP」で発表しました。
その後1973年に初めて絵本化されたのが
『あんぱんまん』です。
今でこそ不動の人気を誇るキャラクターですが、
最初は期待されず、
各テレビ局ともアニメ放送を渋っていました。
ところが、視聴率3%とれれば御の字という状況下で
叩き出したのは7%。
10%に届くこともあったそうです。
アンパンマンは一気に人気者になりました。
アニメに登場するキャラクターは1768体にも上り、
2009年にギネス認定されています。
代表作②『手のひらを太陽に』
やなせたかしさんが作詞した楽曲で有名な
『手のひらを太陽に』。
誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
1960年、やなせさんが
ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当した際、
作曲家のいずみたくさんと知り合い、制作した曲です。
「ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ」
この歌の歌詞は、
やなせさんが仕事や健康について苦悩するなかで
生まれたそうです。
代表作③『やさしいライオン』
『やさしいライオン』は
やなせさんによる幼児向けの絵本です。
やなせさんが手塚治虫さんの映画で美術監督を務めたことのお礼に、
手塚さんがアニメ映画化し
毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞しました。
やなせさんはこの作品について、
『やさしいライオン』がなければアンパンマンも絵本化されなかったと思う。
引用:WayBackmachine
と語っています。
やなせたかしの出身地は高知と東京どっち?
出身地は高知県
やなせたかしさんの出身地は
高知県
です。
やなせさんは、
東京府北豊島郡滝野川町(現在の東京都北区)で
生まれましたが、5歳の頃に
父方の実家である
高知県香美郡在所村(現在の高知県香美市香北町)に
移り住み、高校時代まで過ごしています。
出身地の定義を調べてみると
「育った土地」
「子供のころに長く過ごした場所」
なので、
やなせさんの出身地は
5歳から大学に入るまでの間過ごした高知県
だといえます。
ちなみに、
東京は「出生地」にあたります。
故郷を愛したやなせたかし
やなせさんの出身地が高知県であることは、
やなせさんがその地に
深い思い入れがあることからもわかります。
例えば、
アンパンマンがアニメ放送され始めた当時、
高知県だけは放送されていませんでした。
その理由は、スポンサーがいないから。
そこでやなせさんは
故郷で放送されていないのはおかしい
と、自らスポンサーを買って出たのです。
また、
高知県香美市には
「香美市立やなせたかし記念館」が
1996年7月に建てられました。
さらに、
2013年に亡くなったやなせさんのお墓は、
高知県香美市にある実家の跡地につくられた
「やなせたかし朴ノ木公園」に設置されています。
これらのことからも、
やなせさんは高知県出身で
高知県に思い入れがあることがわかりますね。
【若い頃】やなせたかしの生い立ちや経歴を紹介!
生い立ち
やなせさんの父方の実家は
伊勢平氏の末裔で300年の歴史がある旧家です。
父親の柳瀬清さんは講談社の編集者を務めており、
やなせさんが1歳になる年に東京朝日新聞に引き抜かれて
上海に渡りました。
のちにやなせさんも母親と上海に移住し
弟・千尋さんが誕生しますが、
父親のアモイへの転勤を機に帰国。
やなせさんが5歳のとき、
父親は32歳の若さで亡くなりました。
家族は父方の実家のある高知県に身を寄せ、
母親は再婚、やなせさんは伯父に引き取られて育ちます。
学生時代~戦争、そして漫画家へ
やなせさんが絵に興味を抱いたのは
中学生の頃でした。
大学生になると上京し、
東京高等工芸学校図案科
(現在の千葉大学工学部デザイン学科)
に進学します。
卒業後は田辺製薬の宣伝部に就職しますが、
1941年に徴兵され日中戦争に出征しました。
軍では暗号解読などを任され、
敵に向かって銃を撃つことはなかったそうです。
なお、弟・千尋さんは大東亜戦争で戦死しました。
終戦後、高知新聞の記者となり、
のちに妻となる小松暢さんと出会ったのち、
上京して三越でデザイナーになったやなせさん。
三越で働く傍ら漫画家になる夢を追いかけ、
34歳で漫画家として独立しています。
幅広い創作活動を経て絵本作家へ
やなせさんが40代にさしかかった1960年代、
舞台の美術監督や放送作家など
漫画家とは別の仕事も手がけ、
この頃に『手のひらを太陽に』を制作します。
その後、山梨シルクセンター(現在のサンリオ)の力を借りて
詩集『愛する歌』を出版し大ヒット。
編集長を務める傍ら絵本作家としての活動も始め、
『アンパンマン』の誕生につながります。
アニメ「それいけ!アンパンマン」が爆発的に人気になった後も、
やなせさんはキャラクターデザインや
作曲家・歌手としての活動など
あらゆる方面で活躍しました。
やなせさんは晩年まで舞台挨拶やインタビューに応じ、
2013年10月13日94歳で心不全のため亡くなっています。
やなせたかしの生い立ち・出身地まとめ
やなせたかしさんは東京生まれですが、
出身地は高知県です。
5歳のときに父親を亡くし、
戦争で弟を亡くしたやなせさんは
自身も戦争を経験しながら
漫画家になる夢を追いかけました。
演出家や放送作家などを経て
代表作の一つ『手のひらを太陽に』の作詞を手がけ、
サンリオとの交流ののち絵本作家になります。
そして50歳のときにアンパンマンを発表、
アニメが大ヒットを記録し人気を博しました。
その後もデザインや作曲家などとして活躍し、
94歳でこの世を去っています。
「人生の楽しみの中で最高のものは、
やはり人を喜ばせることでしょう。」
やなせさんは、自らのこの言葉通りの人生を
歩んだのではないでしょうか。